自己紹介

こんにちは。

摂食障害を患い、食の大切さに気が付き田舎で暮らす「なるママ」です。

 

「なるママブログ」にお越しくださり本当にありがとうございます。

 

動き出すのが遅いけど、何だかんだやってくれるイクメン夫と4人の男の子と暮らしています。

 

摂食障害になり、食がどれだけ大切かという事が分かりました。

今は子供が4人もいますが、子どもを授かるまで、子どもが産めるような体とは思っていなかったです。

 

このブログでは摂食障害で毎日苦しんでいる当事者とその周りの人たちにとって、少しでも希望の光が見えるようなブログにしていきたいとともに、育児そして食を見直す生活について発信していこうと思っております。

 

以下、私の摂食障害になった過程と心境の変化・現在の生活までの自己紹介を掲載しますので、お時間がございましたらお付き合いいただきたいです。

 

摂食障害になった経緯

笑顔の子供

摂食障害になったのは、この時です!

と断言できるわけではなく、ダイエットが加速していって、気が付いたら食べ物を食べることに対して罪悪感を感じるようになっていきました。

 

ダイエットを始めたのは、中学生から。

小学生のころから周りの人たちと自分の体型を比較するようになっていました。

特に私が気になっていたところは、足とお腹です。

 

比べるようになったきっかけは分からないのですが、小学3年生からフィギュアスケートやバレエ・水泳など体型のはっきりわかるような習い事をしていて周りの人の体型がよく見れたからではないかと思います。

当時の私はスケートを週5で練習しており、その技能を高めるためにバレエや水泳・ジムに週1~2回通っていました。

昨今のスケートの選手は細い選手が多いですが、昔は足のしっかりとした体形の人がオリンピックに出場していたので、当時の筋肉の付け方は足を重点的にしっかりとさせるようなトレーニング方法だったのかも知れません。

と言っても、他のスケートをしている友達も細い人が多く、日々うらやんでいました。

 

中学生になり、両親の離婚によりスケートを辞めてしましました。

それに伴って、バレエ・水泳・ジム通いもなくなりました。

部活で運動部に入ったものの、今までの運動量よりもはるかに少なくなり、食べる量は変わらずだったので、体重がどんどん増えていきました。

思春期なので、体重が増えて当たり前な年齢ではありますが、やはり周りの人たちと比べて足が太い・お腹が出ているという事をずっと気にしていて、本格的なダイエットというより、初めは間食を少なくするという程度から始まりました。

 

それでも、理想的な体型にはならず、お弁当を少なくしてもらったり、夜だけ白ご飯を食べないというダイエットへシフトしていきました。

 

高校生になったころ、ダイエットはますます加速していきました。

痩せたいと思いつつも、高校時代は部活には入らず、体を動かすことよりも、勉強に力を入れるようになりました。

理由は、中学生まで全く勉強しておらず、成績は下から数えた方がはるかに早い位置にいたのがきっかけだっただろうと思います。

成績が悪い自分は頭が悪いと思っていて、そんな自分が嫌でした。

そして何よりも、勉強に力を入れた理由は両親の離婚後に母親についていった私は「母親に気に入られたい」と思っていて、それが強い理由になってると思います。

母は学校の成績を気にするタイプでしたので、成績が上がれば私のことを気に入ってもらえると思ったのです。

 

なぜ気に入られていないか?

それは弟の存在と、両親の離婚によって、私は母に気に入られていないのだと思ったのでした。

両親の離婚の際にどちらにつくかで話になったとき、今までの生活では自然と私と弟との関わりの比重が父は私担当、母は弟担当となっていて、学校が終わったら毎日学校に父が迎えに来てくれてそのままスケートの練習に行って、練習後はバレエやジムという生活で、ほとんどそれに付きっ切りな父親。

帰るのは、21時を回る事なんてしょっちゅうでした。

私が生まれてすぐに両親は自営業を開始し、私が小学生のころ事業は軌道に乗っていて従業員もたくさん雇い、父は比較的自由に時間を使い、母は父の分もお店で働いているという状況でしたので、父は私につきっきりになれたのです。

そんな生活をしていたので、私が母と一緒に居られる時間は少なく、それも私は不満に思っていました。

しかし、母はお金のかかるスケートを習わせることに反対で、練習についてきてくれることなんて数回しかありませんでした。

そのため、父は私担当・母は弟担当のように自然となっていました。

 

離婚後、私はどちらにつくかを選ぶことができ、私は迷わず母につくことを選びました。

理由は、父がすごく怖い人だったからです。

ちょっとした約束を破ったり、スケートでいい成績を取れなかったりするとすぐに怒る人で、殴られたり物を投げられたり、「山に捨てに行く」と言われ、本当に山まで行かれて車から降ろされたりしました。

スケートをさせてくれたのはありがたかったのですが、どちらかと言えば父の恐怖におびえながら父と接していたので、これ以上は一緒に居たくなかったのです。

と言っても、父は単に愛情の表現が下手くそすぎるだけで、私の事を大切に思ってくれていました。

だから離婚前の別居中に、父は私が自分の方につくために、私を説得に学校まで来たことがあり、そこで言われた言葉で私は母にあまり愛されていないという事に気が付いたのです。

その言葉と言うのが「母ちゃんは(愛情表現が10段階としたら)○○(弟)を7愛していて、なる(私)は3しか愛してないんやぞ」と言う言葉です。

この言葉は私をハッとさせました。

確かに母親を見ていると弟に甘い。

それは大人になった今でも感じることで、この言葉は今でも引きずっている言葉の1つになっています。

 

その言葉は、私のことを3しか愛してない母に何とか振り向いて欲しい気持ちを強くさせました。

振り向いてもらう方法として、まずは成績を上げようと思ったのです。

母は私の成績が伸びるのを望んでいると思ったので「成績が伸びたら褒めてくれるだろう」「振り向いてくれるだろう」と考え、勉強に力を入れるようになりました。

高校生になった私は、学力テストでいい点数、クラスでいい順位を取れるようにひたすら勉強していました。

 

「勉強していい点数を取れば母が喜ぶ」

そう信じながら勉強していたのですが、悪い点を取ったときは呆れられる一言を言っていたのにもかかわらず、いい点数を取ったときは私の想像していた満足のいく反応は得られなかったのです。

 

いい点を取って褒められた記憶はないのですが「すごいねー」なんかは言ってくれてたと思います。

でも、私が求めているのはそんな表面的な言葉ではなく、私への対応が劇的に変わることだったのです。

いい点数を取っても母の対応は以前と変わらなかったのですが、それでも私はますますいい点数を取ることにこだわりを持つようになっていき、次第にテストの点数やクラスでの順位が良ければ自分の価値も上がっていくと思うようになっていきました。

ですので、点数や順位が下がったら、自分の価値がなくなっていくと思い込んでしまい、成績が下がらないよう必死でした。

それと同時に中学校から始めたダイエットもエスカレートしていき、ちょうど母も一緒にダイエットをしていたこともあり、痩せても気に入ってもらえるかな?なんて思ってもいたのでしょう。

自分の体重に関しても、体重が減るごとに自分の価値が上がるように感じるようになっていきました。

毎日体重を測り、減っていたら安心し、0.1gでも増えていたら落ち込むようになっていきました。

 

このように単なるダイエットが徐々に徐々に摂食障害になったといえるのかなと感じています。

 

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あなたの悩みを解決できるブログになれたら最高!

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

 

「私と同じような悩みのある方がこのブログを読んで、解決されればいいな」という想いを込めてブログを書いています。

あくまでも私の体験談で専門家ではございません。

 

摂食障害は個人個人症状や想いが違います。

こうすれば摂食障害が快方へ向かう、改善するという方法ではありませんので、個人の判断で参考にしていただければ幸いです。

このブログを見て、少しでも悩みが解決できたり、気持ちがちょっとでも楽になったらとっても嬉しいです!

こういうことが知りたい!とかこんなことがあったけどどうしたらいい?などありましたらお気軽にメッセージ下さいね。

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